マレーシアは理想的すぎた?
マレーシアは、生活環境、食、医療、どれをとってもほぼ完璧に近かった。ライフプランのうち長い目で見れば、日本よりも子育てや教育、リタイアメントに適しているとさえ思うほど。しかし、そんな快適すぎる環境を抜け出そうと考えたのはなぜか。
私は幼い頃から、リスクを恐れずに新しい場所へ飛び出す性格だった。親元を離れてどこまでも歩いて行ってしまうので迷子センター常連だったし、今もなお、安全で落ち着いた環境にいると、自分の内なるエネルギーがしぼんでしまうような感覚に襲われる。マレーシアではじっくり自分と向き合う時間があったものの、日々の刺激が足りず、次第にモチベーションやパッションの炎が小さくなっていくのを感じずにはいられなかった。(カルシファー🔥…)

「将来」を語ることへの違和感
マレーシアでできた友人たちは、一般的な恋愛観や結婚観を持っていた。女子会では「何歳で結婚する?」「子どもは何人ほしい?」といった会話が中心。私は、こういった話題を否定するわけではないし、彼女たちも大好きなのだが、今の自分にとってそれが最優先事項ではないことをはっきりと自覚していたので、愛想笑いでやり過ごしていた。
私にとって大切なのは、まず自分が心から愛する仕事を見つけ、しっかりと自分の手でお金を稼ぐこと。そのうえで、縁があれば一緒に過ごせるような相手が現れるだろうし、タイミングがなければそれまでのこと。未来の計画を無理に立てるよりも、目の前のチャンスに全力を注ぐ方が、私にとっては自由でリアルな生き方だった。

「給与の天井」が見えた瞬間
マレーシアでの仕事は驚く必要がないくらい安定していたが、それが逆に退屈で仕方なかった。どれだけ頑張っても、どれだけ手を抜いても、毎月の給料はほぼ同じ。ボーナスは2月末に数か月分いただけて、1年間で10%程度の昇給。贅沢すぎる文句を言っているのは自覚している。しかし私は、数字で自分の成果が見える環境の方が能率的に進化できるタイプポケモンだった。
同じ額の給料が毎月振り込まれると、モチベーションが続かない。だからこそ、努力次第で青天井に稼げる環境で自分がどこまでできるのかを試してみたかった。挑戦したり、大きな夢に向かって進んでいるときには無限大のエネルギーを味方にできるような気がする。

「日本人らしさ」に疲れる瞬間
海外で暮らしていると、日本人らしさを誇りに思うこともあれば、逆にものすごく窮屈に感じることもある。例えば、「空気を読む」「察する文化」——これらは時に美徳となるが、私はむしろ直接的で合理的なコミュニケーションの方が心地よかった。空気など読むものではないし、伝えない限り伝わるはずもないのだ。海外で生活していることで、自分の性格に合った環境と言語を選べる自由は幸福度そのものを底上げしてくれた。
無制限の市場を求めてドバイへ
半年以上仕事を探しながら見えてきた条件は二つ。
- 給与に天井がないこと
- 日本的な働き方から解放されること
そんなとき、2024年8月頃、海外バイリンガル求人をなんとなくチェックしていたら、ドバイでの不動産職求人を見つけた。「経験者歓迎」とあったが、英語力重視のため迷わず応募。その日のうちに履歴書を送り、3日後には返答があった。
その後、人事担当者と1時間半ほど電話をした。話しやすく、気づけば雑談を交えながら過去の経験やドバイのでの暮らしについて語り合っていた。その1週間後、日本総括マネージャーとの面接があり、英語での会話が中心。半分日本、半分中東のバックグラウンドを持つ彼に対して「バイリンガルでいることがコンプレックスだからこそ、世界で通用する知識とスキルを身につけたい」と熱意で押し切った。同時に、彼は完全に海外バイブス全開だとわかったので、日本過ぎる環境への懸念が払拭された。

面接の印象はかなり良く手ごたえもあったが、その後2週間ほど先方からの連絡が途絶えた。問い合わせると、「外国人に対するビザ発行コストの懸念で採用保留」とのこと。同年3月からアメリカ企業の面接では同じ理由で玉砕しまくっていたので、正直「またビザか!」と内心毒づいた。そんなことはひとまず忘れて、平常心でマレーシアのスローライフを満喫することにした。
9月になると、人生で初めてオーストラリアのパースを訪れたり、沖縄で大学時代の同期の結婚式に参加したり、シンガポールを弾丸旅行したりと、相変わらずの移動生活を送っていた。

大阪でのメンターとの時間
ドバイの採用が保留になっていた間、心からお慕いしているメンターに会うために11月半ばには大阪へ飛んだ。彼女は、18歳から社会人としての私を育ててくれている山よりも高い存在。どんな時でも人生の分岐点に立つたびに的確かつ型破りなアドバイスをくれる存在。年末にはラスベガスで会わないかとお声掛けいただき、その場で行きますとお伝えした。メンターをお見送りした後、ふと思い浮かんだハワイ時代の大親友に電話をした。クリスマスと新年をアメリカで一緒に過ごしたいと伝えると、なんとその場でOKしてくれた。愛が止まらない!
メンターは安定を抜け出すことの重要さをそれとなく伝え続けてくれていた。マレーシア生活はふさふさした羽が生えそうなほど快適だったけれど、その環境が「成長の停滞」と表裏一体であることも、彼女との対話の中で確信に変わった。

チャンスは突然やってくる
後に、大阪とラスベガスでのメンターとの会話は、私がドバイ行きを最終決断する大きな後押しとなった。
12月初めには、人事担当者から「正式に採用決定」の連絡をいただいた。副理事との最終面接でも、不動産知識はゼロだったが、「情熱だけは負けません!」戦法でなんとか乗り切った。そして、面接の最後には「いつドバイに来られる?」と聞かれたので「すぐにでも行けます!」と即答した。もちろん、それは軽いホワイトライだったが、こういう場合は**「言ってしまったもの勝ち」**であることを私は知っている。先方には、3月頃に投稿することを1月末に伝えた。2カ月以上お待たせしてしまったけれどOKと言ってもらえた。
ドバイへの旅立ち
年末にラスベガスで新年を迎え、1月に祖父へ会うため青森へ帰省。関東では両親にもネイリストの親友にも再会できた。マレーシアに戻るやいなや、上層部に辞職の意向を伝えた。「日々のルーティンワークに加えて資格やライセンスがないまま時間が過ぎていくのに耐えられない」と正直に伝えたところ、理解を示してくれ、スムーズに退職手続きが進んだ。マレーシアの退縮手続きについても追って紹介をしたい。

ドバイ渡航を前に、兄に会うために最後のバンコク旅行を楽しみ、月末には荷造りを開始。3月1日、マレーシアからの深夜便を経てついにドバイへ到着。直行便で7時間半、どこでも眠られるオーロラまなにとってはあっという間のフライトだった。現地で昼過ぎ頃にはモンゴル姐さんがドライバー付きのベルファイアで迎えに来てくれ、そのまま競馬場へ直行。ちなみに競馬はドバイが初めてで、想像していた日本の競馬場とはスケールが違いすぎて、豪華すぎる会場に目がくらんだ。
「これがドバイか…!」
日本との時差は5時間。眠気も吹き飛ぶほどの圧倒的な景色と両端がどこか見ることもできない大きすぎるレース場。新天地ドバイの夜に輝く筋肉質な馬のおしりと、煌びやかな観客たちは都会の夜景くらいまぶしかった。そして、私の新たな挑戦がここで始まった。

次回は、ドバイでの仕事、競馬レポート、そしてリアルな日常についてもお話しします。
最後までお読みいただきありがとうございます。今週も元気に頑張っていきましょう😊
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